山恵錦(さんけいにしき)開発ストーリー
令和の幕開けとともに品種登録された長野県オリジナルの酒米「山恵錦」。品種登録早々、国内や海外の日本酒評価コンクールで最高賞を数々と受賞し、鮮烈で華々しいデビューを飾りました。その華麗な舞台裏には多くのドラマがありました。この品種開発に関わるエピソードを紹介します。
苦難の時代を乗り越えて
意外ですが、長野県農業試験場は知る人ぞ知る酒米育種の名門地です。日本3大酒米と称えられる「美山錦」、幻の酒米とされる「金紋錦」をはじめ、「たかね錦」、「しらかば錦」、「ひとごこち」など、昭和から平成にかけて全国的にも有名で優秀な品種を数多く世に送り出してきました。しかし、「ひとごこち」を平成6年に送り出して以降の四半世紀は、まさに暗黒の時代…。不運にも平成10年代後半から始まる焼酎ブームも重なって日本酒は一時的に苦境となり、酒米の育種も鳴かず飛ばずの状態が長く続いていました。転機となったのは世界的に和食がブームとなり始めた平成20年代の中盤頃。この頃から始まる空前の日本酒ブームの到来とともに、酒米の王者「山田錦」に匹敵する長野県オリジナルの新しい酒米品種育成への期待が高まりました。酒米の育種にも長いトンネルの出口がようやく見え始め、雪の下でじっと春を待つ草花のように、苦難の時代を耐え抜いてきた長野県の新しい酒米品種の誕生に再び注目が集まり始めたのでした。
国内初の画期的な手法により誕生
「『山田錦』に並ぶ酒米品種を作るには大きな覚悟が必要。どうせなら誰もやっていない画期的な方法にチャレンジしてみよう!」育種部で主担当として育成に従事した細井淳主任研究員(現:企画経営部 所属)は、「泣かず飛ばずとなっていた暗黒時代の終わり頃、我々酒米品種の開発者に足りないデータは何だろう?そこを出発点として育種の全部の工程を徹底的にチェックしました。打開策のヒントを探すため、実際の酒造りの製造工程を見学させてもらったり、酒造りのこだわりについて蔵人に直接聞いたりするうちに、製麹(せいきく)※が最も重要なことに気づきました。従来の酒米育種にはこのデータを取る手段がなく、国内の研究者の誰も注目することがありませんでした。もし、このプロセスを実験室で再現できれば、『山田錦』を越えるような品種を必ず選びだすことができる!その挑戦への決意が『山恵錦』の育成へのきっかけになりました。」そう当時を振り返りました。
今までの育種手法から一線を画すことはとても勇気の要る決断でした。それから新たな時代を担う酒米育種に製麹を組み込む挑戦が始まりました。従来の育種では米粒の大きさや心白の発生など、米の見た目で選抜をしていましたが、こうした形質は酒造りに関係する要素としては比較的小さいものです。一方、製麹は酒造りに欠くことができない工程で、麹の出来の良し悪しは酒造の結果に直結するため、最も重要です。しかし、農業試験場では製麹作業を行ったことが無かったため、機材もノウハウもゼロからのスタート。工業技術総合センター食品技術部門から助言を得つつ、繰り返し手探りの作業が続きます。機材類はキッチン用具を改造し、麹の培養は条件を変えて何度も試行錯誤しながら、知恵と工夫で問題点をひとつひとつ克服していきました。そしてついに『麹製造適性の評価法』を完成させました。麹を分析したデータにより酒米を選抜するこの手法は、国内で初めての画期的な方法としてマニュアル化され、農林水産省が認める優れた研究成果として「最新農業技術・品種2021」に選ばれました。
この方法を適用して毎年約20系統の麹データを解析して選抜を行ううち、数年間かけてついに秀逸な1系統に行き着きます。それが「信交酒545号」、のちに公募によって信州の山々からの恵みをイメージして「山恵錦」と名づけられた系統でした。平成が終わり、令和の新しい時代の幕開けとなる頃、国内初の新しい手法で選ばれたこの新しい品種に信州地酒ブランドの命運が託されたのでした。
※吸水させた白米を蒸して適度に冷まし、コウジカビの胞子を振りかけて培養する作業。麹菌の菌糸が巡った米を麹と呼んでいる。麹の持つ酵素は米のデンプンを糖類に変える働きがあり、酒造りには欠かせない原材料となる。
麹をキーワードに結ばれた新たなつながり
農業試験場において製麹のチャレンジが続いていた頃、あたかも麹の菌糸が米の表面を巡るように不思議な縁が生まれます。熱意ある蔵元の呼びかけにより発足した勉強会の「長野県酒米研究会」が県内で産声を上げ、新時代を担う新しい品種を使いたいと希望する蔵人が熱心に意見交換を行うようになりました。また、農林水産省の競争的研究資金(イノベーション創出強化研究推進事業)に採択され、酒米・麴製造適性コンソーシアムが発足。アドバイザーとして秋田県立大学名誉教授の岩野君夫氏、研究支援者として酒類総合研究所成分解析研究部門長の岩下和裕氏を専門家として招聘し、2名の専門家からの助言を得ながら「山恵錦」について徹底的なデータ解析やデータに基づく改善が行われるようになりました。原材料生産、製造管理、品質チェックなど、米の生産から日本酒の出来上がりまで、細かいプロセスにまで目の行き届くきめ細やかな技術サポート体制が出来上がり、新たな信州地酒のブランドを確立する環境が整いました。信州人の実直で熱心な気質を反映した小回りの利く体制が作り上げられ、いよいよ「山恵錦」をスターダムへ押し上げる舞台が整いました。
全国新酒鑑評会にて初出品・金賞受賞の大快挙。そしてついに世界チャンピオンの栄冠へ!
「山恵錦」が無事に品種登録出願された後、関心の高い蔵元による全国新酒鑑評会への出品が早速行われました。国内で最も格式の高い清酒コンクールへの出品は、「山恵錦」にとって試金石となる最難関へのチャレンジであり、同時に信州地酒を支える関係者一同にとっても大きな賭けとなるものでした。初出品の結果は、高橋助作酒造店の「松尾」が最高栄誉の金賞を受賞。その発表の瞬間、大きな喜びに沸き立ちました。この受賞をきっかけに「山恵錦」の持つ高いポテンシャルは関係者一同に認められ、その後も県内蔵元によるこの品種を原材料として使った清酒は続々と上位入賞を果たしました。
さらに快進撃は続きます。国際的な清酒コンクールとして有名なインターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)2021において、諏訪御湖鶴酒造場「御湖鶴 純米吟醸」が出品総数1,499銘柄の頂点に立ち、チャンピオン・サケの栄冠を獲得しました。「山恵錦」の清酒に与えられた世界チャンピオンの称号とともに、信州地酒が世界ナンバーワンに認められた奇跡の瞬間でもありました。こうして「山恵錦」の国内外での評価は年々高まり、信州地酒の基幹品種としての地位を築いています。
酒米育種のこれから
「1つの品種を作り出すには10年以上の長い年月と多くの手間がかかります。将来起こるかもしれない課題を予想し、今からそれに向けた育種を続けていかなければなりません。水稲の育種研究者に終わりはないのです。」と細井淳主任研究員は、最後にこのように言いました。
そこには、「山恵錦」で信州ブランドが確固たる地位になってきた状況にも決して甘んじることは無く、未来の目標に向けて新たな課題に取り組んでいる姿勢がありました。令和から先の時代に向け、「山恵錦」が生んだ信州発の酒米育種へのチャレンジ精神は、これから生まれてくる新しい品種とともに脈々と後任の研究職員にバトンタッチされていくのです。
北信五岳を遠くに臨む農業試験場で、田んぼに引き入れる用水を通した山々の恵みに感謝しながら、これから先も研究が続いていきます。